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その後ファラデーは結婚した。この事は後にくわしく述べるとして、引きつづいてファラデーのしておった仕事について述べよう。
ファラデーの仕事は、ブランド教授が講義に見せる実験の器械を前以て備え置き、時間が来ると教授の右方に立って、色々の実験をして見せる。講義のない時は、化学分析をしたり、新しい化学の薬品を作ったり、また暇には新しい研究もした。
一八二〇年にエールステッドが電流の作用によりて磁針が動くのを発見したのが初まりで、電流と磁石との研究が色々と始まった。その翌年にファラデーは、電流の通れる針金を磁極の囲りに廻転させる実験に成功した。これは九月三日の事で、ジョージ・バーナードというファラデーの細君の弟も手伝っておったが、それがうまく行ったので、ファラデーは喜びの余り、針金の廻る傍で踊り出してしまい、「廻る!廻る!とうとう成功したぞ!」といった。「今日の仕事はこれで切り上げ、どこかに行こう。どこがよい。」「アストレーに行って、曲馬でも見よう」と、大機嫌でバーナードを連れてアストレーに行った。これまでは宜かったが、土間の入口で大変に込み合い、大きな奴がバーナードを押しつけた。不正な事の少しも辛棒できないファラデーの事とて、とうとう喧嘩になりかけた。
この頃ファラデーの道楽は、自転車のようなベロシピードというものを造って、朝はやく郊外のハムステッド岡のあたりに出かけたり、夕方から横笛を吹いたり、歌を唄う仲間と一週に一回集ったりした。彼はバスを歌った。
キリスト教の宗派はたくさんあるが、そのうちで最も世の中に知られないのはサンデマン宗であろう。
ファラデーの父のジェームスがこの教会に属しており、母も(教会には入らなかったが)礼拝に行った関係上、まだ小児の時から教会にも行き、その影響を受けたことは一と通りではなかった。
ところが、これをエドワードが見つけて、妹のサラに話した。サラはファラデーに何と書いてあるのか見せて頂戴なと言った。これにはファラデー閉口した。結局それは見せないで、別に歌を作って、前の考は誤りなることを発見したからと言ってやった。これはその年(一八一九年)の十月十一日のことである。この頃からファラデーは、すっかりサラにまいってしまった。
時に、手紙をやったが、それらのうちには中々名文のがある。翌年七月五日附けの一部を紹介すると、
「私が私の心を知っている位か、否な、それ以上にも、貴女は私の心を御存知でしょう。私が前に誤れる考を持っておったことも、今の考も、私の弱点も、私の自惚も、つまり私のすべての心を貴女は御存知でしょう。貴女は私を誤れる道から正しい方へと導いて下さった。その位の御方であるから、誰なりと誤れる道に踏み入れる者のありもせば導き出さるる様にと御骨折りを御願い致します。」
「幾度も私の思っている事を申し上げようと思いましたが、中々に出来ません。しかし自分の為めに、貴女の愛情をも曲げて下さいと願うほどの我儘者でない様にと心がけてはおります。貴女を御喜ばせする様にと私が一生懸命になった方がよいのか、それとも御近寄りせぬでいた方がよいのか、いずれなりと御気に召した様に致しましょう。ただの友人より以上の者に私がなりたいと希い願ったからとて、友人以下の者にしてしまいて、罰されぬようにと祈りております。もし現在以上に貴女が私に御許し下さることが出来ないとしても現在私に与えていて下さるだけは、せめてそのままにしておいて下さい。しかし私に御許し下さるよう願います。」
式の当日は賑やかなことや、馬鹿騒ぎはせぬ様にし、またこの日が平日と特に区別の無い様にしようとの希望であった。しかし実際においては、この日こそファラデーに取って、生涯忘るべからざる日となったので、その事はすぐ後に述べることとする。
結婚のすぐ前に、ファラデーは王立協会の管理人ということになり、結局細君を王立協会の内に連れて来て、そこに住んだ。しかし舅のバーナードの死ぬまでは、毎土曜日には必ずその家に行って、日曜には一緒に教会に行き、夕方また王立協会へ帰って来た。
ファラデーの真身の父は、ファラデーがリボーの所に奉公している中に死んだが、母はファラデーと別居していて、息子の仕送りで暮し、時々協会にたずね来ては、息子の名声の昇り行くのを喜んでおった。
「結局、家の静かな悦楽に比ぶべきものは外にない。ここでさえも食卓を離れる時は、おん身と一緒に静かにおったらばと切に思い出す。こうして世の中を走り廻るにつけて、私はおん身と共に暮すことの幸福を、いよいよ深く感ずるばかりである。」
ファラデーは諸方からもらった名誉の書類を非常に大切に保存して置いた。今でも王立協会にそのままある。各大学や、各学会からよこした学位記や賞状の中に、一つの折紙が挟んである。
これらの記録の間に、尊敬と幸福との源として、他のものよりも一層すぐれたものを挟んで置く。余等は一八二一年六月十二日に結婚した。
ファラデーは結婚後、家庭が極めて幸福だったので、仕事にますます精が出るばかりであった。前記の市科学会はもはやつぶれたので、友人のニコルの家へ集って、科学の雑誌を読んだりした。
一八二三年には、アセニウム倶楽部ができた。今のパル・マルにある立派な建物はまだなくて、ウォータールー・プレースの私人の家に、学者や文学者が集ったので、ファラデーはその名誉秘書になった。しかし、自分の気風に向かない仕事だというので、翌年辞した。
デビーはファラデーの書いたものの文法上の誤を正したり、文章のおかしい所をなおしたりしてくれた。一八二二年に塩素を液化したときのファラデーの論文も、デビーはなおした上に附録をつけ、自分が実験の方法を話したことも書き加えた。しかし、ファラデーの要求すべき領域内に立ち入るようなことはなかった。ただ事情を知らない人には、こうした事もとかく誤解を生じ易い。
この塩素の液化の発見の後に、ファラデーはローヤル・ソサイテーの会員になろうと思った。会員になるには、まず推薦書を作って、既に会員たる者の幾名かの記名を得てソサイテーに提出する。ソサイテーでは引き続きたる、十回の集会の際に読み上げ、しかる後に投票して可否を決するのである。ファラデーのは、友人のフィリップスがこの推薦書を作り、二十九名の記名を得て、一八二三年五月一日に会に提出した。しかし、デビー並びにブランドの記名が無かった。多くの人は、デビーは会長であり、ブランドは秘書だからだと思った。
しかし、後にファラデーが人に話したのによると、デビーはこの推薦書を下げろとファラデーに言った。ファラデーは、自分が出したのではない、提出者が出したのだから、自分からは下げられないと答えた。デビーは「それなら、提出者に話して下げろ。」「いや、提出者は下げまい。」「それなら、自分はソサイテーの会長だから、下げる。」「サー・デビーは会長だから、会の為めになると思わるる様にされたらよい。」
デビーの妬み深いのは、健康を損してから一層ひどくなった。この後といえどもファラデーのデビーを尊敬することは依然旧のごとくであったが、デビーの方ではもとのようにやさしく無かった。やがてデビーは病気保養のため、イタリアに転地などをしておったが、五年の後逝くなった。
一八二三年にブランド教授が講演を突然休んだことがあって、ファラデーが代理をして好評を博した。これが王立協会での、ファラデーの初めての講演である。一八二五年二月には、王立協会の実験場長になった。ブランドはやはり化学の教授であった。
ファラデーが実験場長になってから、協会の会員を招いて実験を見せたり講演を聞かせたりすることを始めた。また講演も自分がやるだけでなく、外からも有名な人を頼んで来た。後になっては、金曜日の夜に開くことになり(毎金曜日ではない)、今日まで引き続きやっている。「金曜夕の講演」というて、科学を通俗化するに非常な効があった。
この講演を何日に誰がして、何という題で、何を見せたか、ファラデーは細かく書きつけて置いた。これも今日残っている。
また木曜日の午後には、王立協会の委員会があるが、この記事もファラデーが書いて置いた。
一八二七年のクリスマスには、子供に理化学の智識をつけようというので、六回ほど講演をした。これも非常な成功で、その後十九年ばかり引きつづいて行った。この手扣も今日まで保存されてある。これが有名な「クリスマスの講演」というのである。
この年、化学教授のブランドが辞職し、ファラデーが後任になった。一八二九年には、欧洲の旅行先きでデビーが死んだ。
これよりさき、一八二七年に、ロンドン大学(ただ今のユニバーシティ・カレッジというているもの)から化学教授にと呼ばれたが、断った。
一八二九年には、ロンドン郊外のウールウイッチにある王立の海軍学校に講師となり、一年に二十回講義を引き受けた。たいてい、講義のある前日に行って準備をし、それから近辺を散歩し、翌朝、講義をしまいてから、散歩ながら帰って来た。講師としては非常に評判がよかった。一八五二年まで続けておったが、学制が変ったので、辞職して、アーベルを後任に入れた。
この頃ファラデーの発表した研究は既に述べた通りである。しかし、王立協会の財政は引きつづいて悪いので、ファラデーも実験費を出来るだけ節約し、半ペンスの金も無駄にしないように気をつけていた。
それでも一八三一年には、電磁気感応の大発見をした。この翌年の末の頃には王立協会の財政はいよいよ悪くなった。その時委員会の出した報告に、「ファラデーの年俸一百ポンド、それに室と石炭とロウソク(灯用)。これは減ずることは出来ない。またファラデーの熱心や能力に対して気の毒ではあるが、王立協会のただ今の財政では、これを増す余地は絶対にない」ということが書いてある。
ファラデーが年を取りて、研究や講演が出来なくなっても、王立協会の幹事は元通りファラデーに俸給も払い、室も貸して置いて、出来るだけの優遇をした。
実際、王立協会はファラデーが芽生で植えられた土地で、ここにファラデーは生長して、天才の花は爛漫と開き、果を結んで、あっぱれ協会の飾りともなり、名誉ともなったのであるから、かく優遇したのは当然の事と言ってよい。
しかし、年俸一百ポンドと室と石炭とロウソク。これがその頃のファラデーの全収入であったか。否、ファラデーは前から内職に化学分析をしておったので、これがよい収入になっていた。一八三〇年には、この方の収入が一千ポンドもあった。そしてこの年に、電磁気感応の大発見をしたのである。
それでファラデーは、自然界の力は時として電力となり、時として磁力となり、相互の間に関係がある。進んでこの問題を解いて大発見をしようか。それともまた、自分の全力をあげて、富をつくるに集中し、百万長者となりすまそうか。富豪か、大発見か。両方という訳には行かぬ。いずれか一方に進まねばならぬ。これにファラデーは心を悩ました。
結局、ファラデーの撰んだ途は、人類のために幸福であった。グラッドストーンの言ったように、「自然はその秘密を段々とファラデーにひらいて見せ、大発見をさせた。しかしファラデーは貧しくて死んだ。」
チンダルが書いた本には、このときの事情がくわしく出ている。収入の計算書までも調べたところが中々面白いので、多少重複にはなるが、そのままを紹介しよう。
「一八三〇年には、内職の収入が一千ポンド以上あった。翌年には、もっと増すはずであった。もしファラデーが増そうと思ったら、その翌年には五千ポンドにすることは、むずかしくは無かったろう。ファラデーの後半生三十年間は、平均この二倍にも上ったに相違ない。
「余がファラデーの伝を書くに際して、ファラデーの「電気実験研究」を繰りかえして見た。そのときふと、ファラデーが学問と富との話をしたことがあるのを想い起した。それでこの発見か富豪かという問題がファラデーの心に上った年代はいつ頃であったのか、と考え出した。どうも一八三一、二年の頃であるらしく思われた。なぜかというと、この後ファラデーのやった様に、盛んに発見をしつつ、同時に内職で莫大の収入を得るということは、人力の企て及ぶ所でないからだ。しかし、それも確かでないので、ファラデーの収入書が保存されてあるのを取り出して、内職の収入を調べて見た。
「案の定、一八三二年には収入が五千ポンドに増す所か、千九十ポンド四シリングから百五十五ポンド九シリングに減じている。これから後は、少し多い年もあり少ない年もあるが、まずこの位で、一八三七年には九十二ポンドに減り、翌年には全く無い。一八三九年から一八四五年の間には、ただの一度を除いては二十二ポンドを越したことがない。さらにずっと少ない年が多い。この除外の年というのは、サー・チャールズ・ライエルと爆発の事を調べて報告を出した年で、百十二ポンドの総収入があった。一八四五年より以後、死ぬまで二十四年の間は、収入が全くない。
「ファラデーは長命であった。それゆえ、この鍛冶職の子で製本屋の小僧が、一方では累計百五十万ポンド(千五百万円)という巨富と、一方では一文にもならない科学と、そのいずれを撰むべきかという問題に出会ったわけだが、彼は遂に断乎として後者を撰んだのだ。そして貧民として一生を終ったのだ。しかしこれが為め英国の学術上の名声を高めたことは幾許であったろうか。」
もっともこの後といえども、海軍省や内務省等から学問上の事を問い合わせに来るようなことがあると、力の許す限りは返答をした。一八三六年からは、灯台と浮標との調査につきて科学上の顧問となり、年俸三百ポンドをもらった。
一八三五年の初めに、総理大臣サー・ロバート・ピールは皇室費からファラデーに年金を贈ろうと思ったが、そのうちに辞職してしまい、メルボルン男が代って総理となった。三月にサー・ジェームス・サウスがアシュレー男に手紙を送って、サー・ロバート・ピールの手元へファラデーの伝を届けた。ファラデーの幼い時の事が書いてある所などは、中々振っている。「少し財政が楽になったので、妹を学校にやったが、それでも出来るだけ節倹する必要上、昼飯も絶対に入用でない限りは食べないですました」とか、また「ファラデーの初めに作った電気機械」の事が書いてある。ピールはこれを読んで、すっかり感心し、こんな人には無論年金を贈らねばならぬ、早くこれが手に入らないで残念な事をしたと言った。
初めにファラデーはサウスに、やめてくれと断わりを言ったが、ファラデーの舅のバーナードが宥めたので、ファラデーは断わるのだけはやめた。
この年の暮近くになって、総理大臣メルボルン男からファラデーに面会したいというて来た。ファラデーは出かけて行って、まずメルボルン男の秘書官のヤングと話をし、それからメルボルン男に会うた。ところがメルボルン男はファラデーの人となりを全く知らなかったので、いきなり「科学者や文学者に年金をやるということはもともとは不賛成なのだ。これらの人達はいかさま師じゃ」と手酷しくやっつけた。これを聞くやファラデーはむっと怒り、挨拶もそこそこに帰ってしまった。もしやメルボルン男が年金をよこす運びにしてしまうといけないと思うて、その夜の十時にメルボルン男の所へ行って断り状を置いて来た。
ファラデーは、まず研究せんとする問題を飽くまで撰んで、それからこれを解決すべき実験の方法を熟考する。新しい道具が入用と思えば、その図を画いて、大工に言いつける。あとから変更するようなことはほとんどない。またもし実験の道具が既にある物で間に合えば、その品物の名前を書いて、遅くとも前日には助手のアンデルソンに渡す。これはアンデルソンが急がなくて済むようにとの親切からである。
実験の道具がすっかり揃ってから、ファラデーは実験室に来る。ちゃんと揃っているか、ちょっと見渡し、引出しから白いエプロンを出して着る。準備したものを見ながら、手をこする。机の上には入用以外の物は一品たりとも在ってはならぬ。
実験をやりはじめると、ファラデーは非常に真面目な顔になる。実験中は、すべてが静粛でなければならぬ。
自分の考えていた通りに実験が進行すると、時々低い声で唄を歌ったり、横に身体を動して、代わるがわる片方の足で釣合をとったりする。予期している結果を助手に話すこともある。
用が済むと、道具は元の所に戻す。少くとも一日の仕事が済めば、必ずもとの所に戻して置く。入用のない物を持ち出して来るようなことはしない。例えば孔のあいたコルクが入用とすると、コルクとコルク錐を入れてある引出しに行って、必要の形に作り、それから錐を引出しにしまって、それをしめる。どの瓶も栓なしには置かないし、開いたガラス瓶には必ず紙の葢をして置く。屑も床の上に散して置かないし、悪い臭いも出来るだけ散らさぬようにする。実験をするのに、結果を出すに必要であるより以上な物を一切用いないように注意した。
実験が済めば、室を出て階上に登って行き、あとは書斎で考える。この順序正しいことと、道具を出来るだけ少ししか使わないこととは、ファラデー自身がしただけでなく、ファラデーの所で実験の指導を受けた者にも、そうさせた。そうさせられた人からグラッドストーンが聞いて、伝に書いた。それをそのまま著者は紹介したのである。
「自然界に適当な質問をしかけることを知っている人は、簡単な器械でその答を得ることをも知っている。この能のない人は、恐らく多くの器械を手にしても、良い結果は得られまい」というのが、ファラデーの意見である。従ってファラデーの実験室は能率が良くは出来ているが、非常に完備しているとはいえなかった。
かようにファラデーは、うまい実験の方法を考えて、ごく簡単な器械で重大な結果を得るということを努めたので、実験家だからというても、毎日朝から夜まで実験室に入り浸りで、手まかせに実験をした人ではない。戦略定って、しかる後始めて戦いに臨むという流儀である。後篇の電磁気感応の発見の所で述べるように、途中に日をおいて実験しているので、この間によく考え、器械の準備をさせて置いたのである。
ファラデーの研究した大方針は天然の種々の力の区別を撤廃して一元に帰させようというのである。
それゆえファラデーが喜んだのは、永久ガスが普通の蒸気と同様に、圧力と寒冷とで液化した時である。感応電流が電池から来る電流と同じく火花を出した時である。摩擦電気や電気鰻の発する電気が、電池から来る電気と同様な働きをした時である。電池の作用はその化学作用と比例するのを見た時である。偏光を重ガラスに送ったのが磁気の作用で偏光面が廻転した時である。酸素やビスマスも磁性のあることを知った時である。
ファラデーは研究している間、大きな紙に覚え書きを取って行き、実験が終るとそれを少し書きなおし、一部の順序を換えたり、不要の箇所を削ったりし、番号のついた節を切る。これで論文が出来あがる。かかる疑問を起して、かくかくの実験を行い、これは結果が出なかったということまで書きつづり、最後に良い結果の出た実験を書く。
またケルヴィン男の言葉にも、「ファラデーは数学を知らなかった。しかし数学で研究される結果を忖度し得た。また数学として価値のあるような結果を清楚な言葉で表わした。実に指力線とか磁場とかいうのは、ファラデー専売の言葉であって、数学者も段々とこれを用いて有用なものにした。」
ファラデーはいかによく書いたものでも、読んだだけでは、しっかりと、のみ込めない人であった。友人が新発見の話をして、その価値や、これの影響いかんというようなことを聞かされても、ファラデーは自分で実験して見たものでなければ、何とも返事が出来なかった。
多くの学者は学生や門弟を使うて研究を手伝わせるが、ファラデーにはこれも出来ない。「すべての研究は自分自身でなすべきものだ」というておった。
ファラデーがある事実を知るのには、充分満足するまでやって見ることを必要とした。それですっかり判ると、その次にはこれを他の事実と結んで、一つにして考えようと苦心した。実験室の引出しの内に在った覚書に、こんなのがあった。
この新事実を既知の原理にて説明すること。
その新事実をも説明し得るような一層一般的なる原理の発見。
自分の発見だけではない、人の発見した事でも、新しい実験は非常に喜んだ。ヘンリーがアメリカから来て、キングス・カレッジで他の科学者と一緒になったとき、皆が熱電堆から出る電気で火花を飛ばそうと試みた。ヘンリーがそれをやって成功したとき、ファラデーは小児のように喜んで、「亜米利加人の実験万歳」と怒鳴った。それからプリュッカーがドイツから来て、王立協会で真空管内の放電に磁石を働かせて見せたときも、放電の光が磁石の作用に連れて動くのを見て、ファラデーはそのまわりを踊って喜んだ。
またジェームス・ヘイウードがイーストパンで烈しい雷雨のときに、偶然ファラデーに出逢った。ファラデーは「丁度協会の塔に落雷するのを見た」といって、非常に喜んでおった。
科学上の発見の優先権を定める規則として、現今はその発見が学界に通知された日附によることになっているが、これはファラデーの事件から定まったことである。
ファラデーが後進の人達に話したのには、研究をどんどんとやり、やりてしまったら、まとめてすぐに発表せよというので、すなわち「勉強し、完了し、発表せよ」というのであった。
ファラデーが最初デビーに手紙を送ったときには、商売は利己的のもので嫌だと言った。デビーは、それは世間見ずの若い考で、数年も経つとその非をさとるだろうと言った。
幾年か後に、クロッス夫人がファラデーの実験室に来た時に、学界の空気に感心したと見えて、ファラデーに「俗人の浅墓な生活や日日の事に齷齪するのとは全くの別天地で、こんな所で研究をしておられたら、どんなに幸福でしょう」と言った。ところが、ファラデーは頭を振り顔色を変え、悲しそうな声で「私が商売をすてて学界に入った頃には、これでもう度量の狭い、妬み深い俗の世界は跡にしたと思っておったが、これは誤りで、智識は高くなっても、やはり人間の弱点や利己心は消えぬものだということを悟りました」と答えた。
科学上の発見の話が出ると、すぐに「それが何の用に立つのか」ときかれる。これの答は、人間には智識慾があって智識を得んとするゆえこれを満たすものはみな有用だといいてもよい。しかし問う者は恐らくかかる答では満足すまい。「実用向きで何の用に立つのか」という所存であろう。それに答えるのも、ファラデーの場合にはむずかしくはない。
電気が医用になるというが、これもファラデーの電気ではないか。いずれの都市でも、縦横に引ける針金の中を一方から他方へと流れるものはファラデーの電流ではないか。家々の灯用として使い、また多くの工場では動力に用い、電車もこれで走っているではないか。大西洋なり太平洋なりを航海する船と通信したり大洋の向うの陸から此方の陸へと通信する無線電信も、ファラデーの電気ではないか。
しかし、ファラデー自身は応用の事には少しも手を出さなかった。せっかく、研究して実用に近い所まで来ると、急に方面を換えてしまった。特許も一つも取らなかった。さればといいて実用を軽んじたのではない。
ファラデーが塩素につきて講演したとき、結末の所で言ったのに、
「新しい発見の事を聞くと、それは何の用に立つかと、すぐにきく癖の人がある。フランクリンはかような人には嬰児は何の用に立つのかと反問したそうだが、余はこれを用に立つようにしてくれと答えたい。始めて塩素をシールが発見した時には、実用にならなかったので、いわば嬰児であった。しかしこの嬰児が大きくなって、力づいてからは、今日立派に実用になっているではないか。」
つまり、ファラデーは嬰児を作ることに尽力したので、育てて実用にするのは他人に頼んだ訳である。
それから市科学会で講演するようになってから、スマートの雄弁術の講義を聴きに行き、その後(一八二三年)には一回、半ギニー(十円五十銭)の謝礼を出して単独に稽古をつけてもらった。そればかりでなく、ファラデー自身の講演をスマートにきいてもらって、批評を受けたこともある。但し、ファラデーの講演振りは雄弁術で教えるような人工的の所にはかぶれなくて、活気に満ちていた。
「決して他人の言うてくれる批評を疑うな。」
姪のライド嬢はしばらくファラデーの所に厄介になっていたが、その話に、「マルガース君はいつも朝の講演を聴きに来る。これはファラデーの話し方のまずい所や、発音の悪い所を見出すためで、ファラデーはその通り全部訂正はしないが、しかし引きつづいて遠慮なく注意してくれというていた。」
ファラデーは前もって「ゆっくり」と書いた紙を作って置いて、講演が少し速くなり過ぎると思うと、助手のアンデルソンが傍から見せる。また「時間」と書いたのを作って置いて、講演の終るべき時間が近づくと、見せて注意するというようにしたこともある。
よく雛形を持ち出して説明をした。雛形は紙や木で作ったこともあるが、馬鈴薯を切って作ったこともある。
ファラデーの一生は冒険もなく変化もない。年と共に発見もふえれば、名声も高くなるばかりであった。
ファラデーの人となりは極めて単純である。しかしファラデーその人を描き出そうとすると、中々容易でない。種々の方面から眺めて、これを一つにまとめて、始めてファラデーなるものの大概がわかるであろう。
ファラデーの一日のくらしを記すと、八時間眠て、起きるのが午前八時で、朝食をとりてから王立協会内を一とまわりして、ちゃんと整頓しているかを見、それから実験室に降りて行って、穴のたくさんある白いエプロンをつけて、器械の内で働き出す。兵隊上りのアンデルソンという男が侍して、何でも言いつけられた通り(それ以上もしなければ、それ以下もしない)用をする。考えておった事が頭に浮ぶに従って、針金の形を変えたり、磁石をならべたり、電池を取りかえたりする。それで、思い通りの結果が出て来ると、顔に得意の色を浮べる。もし疑わしくなると、額が曇って来る。考えた事の不充分のために、うまく行かないからで、また新しい工夫をしなければならない。
姪のライド嬢は実験室の隅で、針仕事をしながら、鼠のように静かにしている。ファラデーは時々うなずいたり、言葉をかけたりする。時によると、ポタシウムの切れを水に浮べてやったり、あるいはこれを焔に入れて紫の光を出して、見せてやったりする。
もし外国の学者でも来て名刺を通ずると、ファラデーは実験を中止し、今まで出た結果をちょっと石盤に書きつけて、階上に来り、親切にいろいろの物を見せる。帰ると、再び実験に取りかかる。
夏の夕方には、細君や姪をつれて散歩に出かける。よく動物園に行った。新しく来た動物を見たり、猿がいろいろないたずらをするのを見て喜び、果ては涙ぐむことさえもある。
また金曜日の夕方だと、王立協会の書斎と講堂に行って、万事整頓しているかを見、その夜の講師に挨拶し、友人が来ると、「よくお出で」と言い、講堂では前列の椅子に腰掛け、講師の右手の所に陣取る。講演を聞きながら、時々前にかがみ、講演がすむと、周囲の人々に「ありがとう」とか、「おやすみ」とか言いつつ、細君と一緒に階段を上って自分の部屋に帰る。時には二三の友人と夕食をとる。
王立協会内の講義室におけるファラデーの講演
またファラデー自身が講師だとする。題目は前々から注意して撰み置き、講義の大体は大判洋紙に書き、実験図も入れて、番号まで附けておく。朝の中に覚えよいような順に器械を列べて置く。夕方になると、聴衆はどんどんと来て、満員になる。遅く来た人達は階段の所に腰を掛けたり、大向うの桟敷の後方にまでも立つ。その中にファラデーは、は入って来て、馬蹄形の机の真中に立ち、聴衆がまたと忘れられないような面白い話を始める。
クリスマス前に、小供に講話をする事もある。前の数列は小供で一杯。その後にはファラデーの友人や学者が来る。その中にサー・ジェームス・サウスも来る。聾であるが、小供の嬉しがる顔が見たいからといって来る。ファラデーは鉄瓶とか、ロウソクとかいうような小供の知っている物の話をし、前に考えもつかなかったような面白いことを述べて、それから終りには何か有益になる話をする。
また日曜日には、家族と一緒にレッド・クロッス町のパウル・アレイにある小さい教会に行く。この教会は地下鉄道の停車場が出来たので、今日は無い。午前の説教や何かが済んでから、信者が皆一堂に集って食事をし、午後の礼拝をすまして帰るのは五時半で、それからは机で何か書きものでもして、早く床につく。ファラデー自身が説教をしたこともある。
一八三九年の終り頃からファラデーの健康は衰えて来て、初めには物忘れがひどくなり、その後は時々眩暈を感ずるようになった。翌年には、医師の勧めで研究をやめた。けれども講演だけは時々していた。これもその翌年からはやめて、全く静養することにした。暇に、紙細工をしたり、曲馬、軽業、芝居、または動物園などに行った。細君はもはや王立協会には住めなくなって、動物園の近い所にでも移転しなければならないかと心配した程であった。
それからスイスへも旅行した。細君とその兄のジョージ・バーナードか、さなくば姪のライド嬢が一緒に行った。しかし細君の熱心な介抱により段々と良くなり、一八四四年には旧の体になって、また研究にとりかかった。
ちょっと、休養に出かける場合にはブライトンに行く。クリスマス前にも度々行ったし、四月の復活祭にも行った。海の風を吸いに行くのである。
晩年には灯台の調査を頼まれたので、田舎へ旅行したこともある。
人の一生を知るには、その人のなした仕事を知るだけでは十分でない。反対に、その人のことさらしなかった事もまた知るの必要がある。人の働く力には限りがあるから、自分に適しない事には力を費さないのが賢いし、さらにまた一歩進んで、自分になし得る仕事の中でも、特によく出来ることにのみ全力を集注するのが、さらに賢いというべきであろう。
ファラデーは政治や社会的の事柄には、全く手を出さなかった。若い時に欧洲大陸を旅行した折りの手帳にも、一八一五年三月七日の条に、「ボナパルトが、再び自由を得た(すなわちナポレオン一世がエルバ島を脱出したことを指す)由なるも、自分は政治家でないから別に心配もしない。しかし、多分欧洲の時局に大影響があるだろう」と書いた。後には、やや保守党に傾いた意見を懐いておったらしい。
ファラデーのような人で、不思議に思われるのは、博愛事業にも関係しなかったことである。もちろん個人としての慈恵はした。
また後半生には、科学上の学会にも出席しない。委員にもならない。これは一つは議論に加わって、感情に走るのを好まなかったためでもあろうが、主として自分の発見に全力を集めるためであった。
田園生活や、文学美術の事にも時間を費さない。鳥や獣や花を眺めるのは好きだったが、さてこれを自分で飼ったり作ったりして見ようとはしなかった。音楽も好きではあったが、研究している間は少しも音を立てさせなかった。