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一方、橋下グループは党名を引き継いだ暫定的な新党「日本維新の会」を結党、結いの党が解党したうえで合流し維新の党へ改称した。
党史結党前2009年(平成21年) 4月25日-松井一郎ら府議6名が自由民主党会派を離脱し、新会派「自由民主党・維新の会」を設立。
2010年(平成22年) 4月1日-上記会派および他党会派に所属する府議22名が新会派「大阪維新の会大阪府議会議員団」を設立。
4月19日-上記会派に府議8名を新たに加え、政治団体「大阪維新の会」を結成。
橋下徹が代表に、松井一郎が幹事長に就任。
2011年(平成23年) 4月10日-統一地方選として行われた府議選・大阪市議選・堺市議選で大阪維新の会が大勝を収める。
11月27日-大阪市長選で橋下徹が、府知事選で松井一郎が当選。
2012年(平成24年) 9月8日-大阪維新の会は所属議員を集めた会議で、国政進出を目指すことを正式に決定した。
あわせて、橋下徹を党首とする新しい政党の名を「日本維新の会」とすることで合意した。
9月11日-自民党・民主党・みんなの党に所属する国会議員7名が合流を表明。
なお総選挙までに3党から合流した国会議員は合わせて13名となった。
9月12日-維新八策を掲げた綱領が発表される。
結党後2012年(平成24年) 9月28日-国政政党「日本維新の会」を正式に結党。
橋下徹が代表に、松井一郎が幹事長に就任。
9月29日-日本創新党が維新への合流を理由に解党。
10月9日-衆議院で院内会派「日本維新の会」を結成。
11月17日-太陽の党と合流。
太陽の党共同代表の石原慎太郎が日本維新の会の代表に就任し、橋下は代表代行に退いた。
また旧太陽の党共同代表の平沼赳夫が国会議員団代表に就任。
11月16日に橋下と石原が会談を持ち、石原が共同代表を務める太陽の党が維新に合流することで合意していた。
11月19日-石原を正式に代表に選任する。
12月16日-第46回総選挙(12月4日公示)において172名の公認候補(うち小選挙区151名、比例単独21名)を擁立。
投票の結果、54議席(うち小選挙区14議席、比例区40議席)を獲得、衆議院での第3党に躍進。
2013年(平成25年) 1月19日-石原・橋下の共同代表制に移行。
3月30日-結党大会を大阪で開催。
旧太陽の党との合流後、検討されてきた新綱領が発表される。
4月14日-兵庫県の伊丹市と同県宝塚市の市長選挙が行われる。
両市は兵庫県とはいいながら、日本維新の会の地盤である大阪府に隣接する地域であり、日本維新の会の橋下徹共同代表の持論の「伊丹空港廃止論」にかかわる伊丹空港の地元でもある。
日本維新の会はここを制すべく、伊丹市長選挙には前伊丹市議会議員の岩城敏之を、また宝塚市長選挙には前宝塚市議会議員の多田浩一郎を擁立した。
これは、「維新の兵庫県への本格進出」として、また、同年7月に予定されている兵庫県知事選挙を日本維新の会が制圧するための前哨戦として大きな注目を集めた。
しかし、伊丹市長選挙では自民・民主・公明推薦の現職が維新の岩城に3倍以上の票差をつけ、また宝塚市長選挙では民主推薦の現職が維新の多田に2倍近い票差をつけるという結果に終わり、それぞれ維新の候補は惨敗を喫した。
さらに、市長選挙と同時に行われた両市議会議員補欠選挙でも維新候補は元職に全敗した。
この結果を受けて、日本維新の会は7月21日におこなわれた兵庫県知事選挙には当初予定していた候補を立てることすらできず、不戦敗に追い込まれた。
5月17日-共同代表橋下徹のいわゆる「従軍慰安婦発言」について、日本維新の会の衆議院議員の西村眞悟が橋下を擁護する立場から発言を行ったが、その内容が不適切だとして、日本維新の会は西村に対して即刻、除名処分を下した。
6月23日-東京都議会議員選挙(定数127人)が行われる。
日本維新の会にとって東京都は、共同代表である石原慎太郎が13年間にわたって知事を務めたお膝元である。
このことから日本維新の会は、選挙前の3議席に対して、34人の公認候補を立てて戦い、躍進を目指した。
しかし、選挙の結果は2議席の獲得にとどまり、選挙前の3議席の維持すらかなわず、「惨敗、完敗」を喫した。
この東京都議会議員選挙では日本維新の会は、当初は「自民党・公明党の過半数獲得阻止」を勝敗ラインとして掲げていた。
しかし、その後は「みんなの党と合わせて第1党」、次に「独自に議員提案が出来る11議席」、そして「現状維持だけでは勝ったとは言えない。(現有の3議席を)下回れば敗退」(幹事長:松井一郎)と、徐々に後退させた。
橋下はこの東京都議会議員選挙について、「(日本維新の会が)東京都議選で支持を受けられなかったということになれば、やりたいことはできない。(自分の共同代表の座は)そのまま継続するわけにはいかない。党のメンバーが『代表辞めろ』ということになれば、僕自身は代表にいられない」として辞任の可能性におよんだ。
選挙結果を受けて共同代表の橋下徹は、敗北の全責任は自分にあると表明した。
しかし、橋下は次期参議院議員選挙までは代表を続けることを希望し、もうひとりの共同代表の石原を含む日本維新の会の幹部メンバーからも橋下の辞任を要求する声はあがらず、橋下の続投が決まった。
幹事長の松井一郎は、選挙前には、勝敗ラインを下回った場合の責任は「選挙責任者としての選挙対策本部長(幹事長が兼任)が負う」と表明していた。
これは、選挙に敗北した場合の責任が、橋下に及ぶことを避ける意であったと解されている。
選挙結果は上述の通り「惨敗」であったが、片山虎之助国会議員団幹事長が「軽々に辞任されては困る」と発言するなど、党内からの批難や人材不足を危ぶむ声があり、松井は前言を翻して「責任はあるが、両共同代表を支えるのが仕事」と述べ、幹事長を続投した。
7月21日、第23回参議院議員通常選挙が行われる(7月4日公示)。
日本維新の会は44名の公認候補(選挙区14名、比例区30名)を擁立し、前年の衆議院議員総選挙を再現するような躍進を期した。
ただし、みんなの党など他の野党との選挙協力はほとんど進まなかった。
投票の結果、日本維新の会は選挙区2名、比例区6名の計8名が当選し、参議院での新勢力は非改選の1議席と併せて9議席となった。
これは改選議席こそ上回っていたものの、参議院での法案提出権を持つ10議席にすら届くことはできなかった。
政見放送では共同代表の石原、橋下の両代表が真横に向き合っての対談形式を取り、最初から最後まで一度も顔を視聴者に向ける事はなかった。
橋下は、前回の東京都議会議員選挙の敗北の後も「次の参議院議員選挙にチャレンジさせてほしい」として共同代表の地位に留まり、この参議院議員選挙での勝利を目指していた。
選挙結果は上述の通りであり、橋下自身も「勝ち目はない。代表という立場で誇れるような結果ではない。トップへの信頼がなかった」と「敗北宣言」を行った。
上記の結果を受け、党執行委員会の席上で橋下と松井は共同代表と幹事長の座を辞任することを表明した。
しかし、共同代表の石原を含む幹部から慰留されて橋下と松井は即座に辞意を撤回。
執行部は続投することになった。
7月29日、橋下は、日本維新の会における自分の役割は「一段落ついた」との認識を示し、これ以降、自らは国政から距離を置き、同党の国政に関する実権は国会議員団に全面的に委ねることを表明した。
9月29日-大阪府堺市長選挙では、日本維新の会の母体である大阪維新の会が元堺市議会議員西林克敏を候補として擁立し、「総力戦」で臨んだ。
日本維新の会も大阪維新の会に呼応して西林を全面的に支援し、共同代表の石原慎太郎を始めとする党所属の国会議員を投入して西林の応援を行った。
しかし、選挙の結果では、反「維新」の立場を明確にしていた現職の竹山修身に完敗した。
なお、この選挙で堺市入りして応援演説を行った石原が「現憲法は連合国軍総司令部(GHQ)の押し付け」とする憲法観や歴史観についての主張を行ったところ、聴衆の一人が「市長選の話を聞きに来たんや」と声を揚げ、それに対して石原が壇上から「大事な話をしているんだ。失礼なやつだ。(前に)出てこい」と言い返したことも話題を呼んだ。
10月27日-兵庫県神戸市長選挙が実施される。
この選挙に日本維新の会は、共同代表の橋下徹が「改革派の自治体リーダーとしてふさわしい人」と絶賛した樫野孝人を擁立することを計画し、党関係者が樫野と接触していた。
しかし、その直前の9月29日に投開票された大阪府堺市長選挙で、大阪維新の会の候補が完敗を喫したこともあって、結局は候補擁立にいたらずに自主投票となり、「不戦敗」となり、また維新の会と政策が近かった樫野は落選した。
11月12日-日本維新の会は、党所属の参議院議員であり同党国会議員団副幹事長のアントニオ猪木に対して、11月12日から12月31日までの50日間、党員資格の停止処分および副幹事長職の停止措置を下した。
これは、猪木が国会の許可を得ずに北朝鮮を訪問したことにともなう措置である。
猪木はこの処分を全面的に受け入れた。
なお、猪木は自分が日本維新の会国会議員団の副幹事長職にあったことを知らなかった。
12月4日-石原は国会で「党首討論」に臨み、そこで特定秘密保護法を高く評価するとともに、イスラエルの情報機関であるモサドを絶賛し、日本にもそのような機関を創設することを主張した。
12月17日-衆議院議員の東国原英夫広報委員長が、「日本維新の会の原点である理念、政策、方向性が変質・変容している」として、会派を離脱するとともに議員を辞職。
日本維新の会にとって、役員クラスの有力議員が党の現状を批判して離党、さらに議員辞職にいたるのは初めてのケースであった。
東国原の辞職に伴い、比例近畿ブロックの最下位次点で落選していた清水鴻一郎が12月26日に繰り上げ当選した。
12月22日-東京都東久留米市長選挙の投開票が行われる。
元国会議員秘書の前田晃平が日本維新の会の推薦を受けて立候補し、同党の衆議院議員山田宏(元杉並区長)の全面的な支援を受けて選挙戦に臨んだ。
選挙の結果(投票率34.55%)、自民党・公明党推薦候補が16024票。
共産党推薦候補が8789票に対して、前田は3位の6958票となり敗北した。
12月26日-日本維新の会は、平成27年度春の統一地方選挙に向け、近畿地方での候補者の発掘をめざす「近畿ブロック維新政治塾」を開催することとして応募者を募集、この日にその応募を閉め切った。
日本維新の会は同地方で候補を大量擁立するために必要な300人規模の人数をこの政治塾で集めようと目論んでいたが、応募者はわずか105人にとどまった。
これについて読売新聞は、この前年の2012年の場合、日本維新の会の母体である大阪維新の会が「維新政治塾」の塾生を公募したところ定員400人に対して3226人の応募が殺到していたため、それと比較して「党勢の退潮浮き彫り」と評された。
2014年2月8日にこの「維新政治塾」の開講式が行われたが、実際の受講者は応募者105人からさらに減少し、94人にとどまった。
12月28日-日本維新の会は、同党の国会議員候補であった山内成介と大野祐司を「反党行為」との理由で除名処分とし、同選挙の比例近畿ブロック名簿から両人の名前を削除した。
山内成介は、日本維新の会公認候補として2012年の衆議院議員選挙に京都3区から、2013年の参議院議員選挙に京都府選挙区からそれぞれ出馬したものの、落選した。
大野祐司は国土交通省総合政策局交通安全対策室長、アジア開発銀行を歴任し、日本維新の会公認候補として2012年の衆議院議員選挙に奈良1区から出馬したが落選。
同年の奈良市長選挙には、党の方針に反して無所属で立候補し、落選した。
しかし、大野自身によると、大野は2012年3月に日本維新の会の党員制度ができる前に同会を離脱しているため、日本維新の会の党員になったことはないという。
大野は、上記の事情から奈良市長選挙に無所属で立候補することは問題がないとしており、さらに日本維新の会が党員ではない自分を除名するとしたことについて困惑していると語っている。
2014年(平成26年) 1月15日-橋下の意を受け、日本維新の会は結いの党と合流することを視野に入れた政策協議をスタートさせた。
しかし、石原は、結いの党を「護憲政党で、手は組めない」として維新との合流の可能性を否定するとともに、結いの党代表の江田憲司が目指す野党再編についても「卑しい願望」と批判した。
結いの党との連携を軸とした野党再編を推し進める橋下は、1月19日のNHKのインタビューで日本維新の会の党内対立について問われた際、「共同代表石原は結いの党を護憲政党というが、僕は結いの党は護憲政党ではないと言い続けている。維新は個性豊かな政治家の集まりでお互いに言いたいことを言い合うが、最後にはきちんとまとまるから見ていてほしい。議論の過程だけを見て内部対立と言ってほしくない」と応え、党内対立を否定した。
それに対して石原は、1月23日に共同通信のインタビューに応じ、結いの党について再び「護憲政党で何の共通項もない」と指摘し、日本維新の会と結いの党との政策協議について重ねて不快感を表明した。
さらに石原は、党内対立が「決定的なものだったら党を割ってもいい」と明言し、日本維新の会の分裂もあり得るという認識まで踏み込んだ。
その上で、将来的な自民党との合流の可能性も匂わせた。
1月-東京都知事選挙について、石原は田母神俊雄を全面的に支援することを表明し、さらに国会議員団代表の平沼赳夫も石原に同調することを表明した。
一方、橋下は、党としては田母神を支援しないと表明し、それにともない、日本維新の会は特定の候補者を支援せず自主投票とすることを決定した。
さらに、日本維新の会国会議員団幹事長の松野頼久は、この選挙に立候補することを表明した元首相の細川護煕を全面的に支援すると発表した。
また、日本維新の会幹事長の松井一郎は、本音では細川に頑張ってはもらいたいが自分がそう言ってしまうと共同代表の石原に「怒られる」と語り、細川に対する積極的な支援は行わない態度を表明した。
2月9日-この日に実施された東京都知事選挙の結果、自民党と公明党の支援を受けた舛添要一が200万票余りを獲得して当選し、社民党と共産党の支援を受けた宇都宮健児が100万票弱で次点につけた。
日本維新の会の一部の有力政治家が支援した細川護煕は約95万票で3位に終わった。
石原の支援を受けた田母神俊雄は、石原が13年の永きにわたって東京都知事をつとめていたという実績があるにもかかわらず約60万票で、当選者の舛添に比べて約3分の1の得票に留まった上に、激しく批判していた社民党・共産党の支援を受けた宇都宮にすら遥かに及ばなかった。